P--1001 P--1002 P--1003 #1浄土真要鈔 #2本 浄土真要鈔 本 それ 一向専修の 念仏は 決定往生の 肝心なり これすなはち 大経のなかに 弥陀如来の 四十八願 を とくなかに 第十八の願に 念仏の信心を すゝめて 諸行をとかす 乃至十念の 行者 かならす  往生を うへしと とける ゆへなり しかのみならす おなしき経の 三輩往生の文に みな通して 一 向専念 無量寿仏と ときて 一向に もはら 無量寿仏を 念せよと いへり 一向といふは ひとつに  むかふといふ たゝ 念仏の一行に むかへとなり 専念といふは もはら 念せよといふ ひとへに 弥 陀一仏を 念したてまつる ほかに 二を ならふること なかれとなり これによりて 唐土の高祖 善 導和尚は 正行と 雑行とを たてゝ 雑行をすてゝ 正行に 帰すへき ことはりを あかし 正業と  助業とを わかちて 助業を さしをきて 正業を もはらに すへき義を 判せり こゝに わか朝の  善知識 黒谷の 源空聖人 かたしけなく 如来の つかひとして 末代片州の 衆生を 教化したまふ  その のふるところ 釈尊の 誠説に まかせ その ひろむるところ もはら 高祖の 解釈をまもる  かの聖人の つくりたまへる 選択集に いはく 速欲離生死 二種勝法中 且閣聖道門 選入浄土門 欲 P--1004 入浄土門 正雑二行中 且抛諸雑行 選応帰正行 欲修於正行 正助二業中 猶傍於助業 選応専正定 正 定之業者 即是称仏名 称名必得生 依仏本願故と いへり この文の こゝろは すみやかに 生死を  はなれんと おもはゝ 二種の 勝法の なかに しはらく 聖道門を さしをきて えらんて 浄土門に  いれ 浄土門に いらんと おもはゝ 正雑二行の なかに しはらく もろ〜の 雑行を なけすてゝ  えらんて 正行に 帰すへし 正行を 修せんと おもはゝ 正助二業の なかに なを 助業を かたは らにして えらんて 正定を もはらに すへし 正定の業と いふは すなはち これ 仏名を 称する なり みなを 称すれは かならす むまるゝ ことをう 仏の本願に よるか ゆへにとなり すてに  南無阿弥陀仏をもて 正定の業と なつく 正定の業と いふは まさしく さたまる たねといふ こゝ ろなり これすなはち 往生の まさしく さたまる たねは 念仏の 一行なりとなり 自余の 一切の 行は 往生のために さたまれる たねに あらすと きこへたり しかれは 決定往生の こゝろさし  あらんひとは 念仏の 一行を もはらにして 専修専念 一向一心 なるへきこと 祖師の解釈 はなは た あきらかなる ものをや しかるに このころ 浄土の一宗に をいて 面々に 義をたて 行を論す る いへ〜 みなかの 黒谷の なかれに あらすと いふことなし しかれとも 解行 みな おなし からす をの〜 真仮を あらそひ たかひに 邪正を論す まことに 是非を わきまへ かたしと  いへとも つら〜 その正意を うかゝふに もろ〜の 雑行を ゆるし 諸行の往生を 談する義  P--1005 とをくは 善導和尚の 解釈にそむき ちかくは 源空聖人の 本意に かなひかたき ものをや しかる に わか親鸞聖人の 一義は 凡夫の まめやかに 生死を はなるへきをしへ 衆生の すみやかに 往 生を とくへき すゝめなり そのゆへは ひとへに もろ〜の 雑行をなけすてゝ もはら 一向専修 の 一行を つとむる ゆへなり これすなはち 余の一切の行は みなとり〜に めてたけれとも 弥 陀の 本願にあらす 釈尊付属の 教にあらす 諸仏証誠の 法にあらす 念仏の一行は これ 弥陀選択 の 本願なり 釈尊付属の 行なり 諸仏証誠の 法なれはなり 釈迦弥陀 をよひ 十方の諸仏の 御こ ゝろに したかひて 念仏を信せんひと かならす 往生の 大益を うへしと いふこと うたかひ あ るへからす かくのことく 一向に行し 一心に修すること わか流の ことくなるはなし されは この 流に 帰して 修行せんひと こと〜く 決定往生の 行者なるへし しかるに われら さひはひに  そのなかれを くみて もはら かのをしへを まもる 宿因の もよほすところ よろこふへし たうと むへし まことに 恒沙の 身命を すてゝも かの恩徳を 報すへき ものなり 釈尊善導 この法を  ときあらはし たまふとも 源空親鸞 出世したまはすは われら いかてか 浄土を ねかはん たとひ また 源空親鸞 世にいて たまふとも 次第相承の 善知識 ましまさすは 真実の信心を つたへかた し 善導和尚の 般舟讃に いはく 若非本師知識勧 弥陀浄土云何入と いへり 文のこゝろは もし本 師知識の すゝめに あらすは 弥陀の浄土 いかんしてか いらんとなり 知識のすゝめ なくしては  P--1006 浄土に むまるへからすと みえたり また 法照禅師の 五会法事讃に いはく 曠劫已来流浪久 随縁六道受輪廻 不遇往生善知識 誰能相勧得廻帰と いへり この文のこゝろは 曠劫 より このかた 流浪せしこと ひさし 六道生死に めくりて さま〜の 輪廻の くるしみを うけ き 往生の善知識に あはすは たれかよく あひすゝめて 弥陀の浄土に むまるゝことを えんとなり  しかれは かつは 仏恩を 報せんかため かつは 師徳を 謝せんかために この法を 十方に ひろめ て 一切衆生をして 西方の 一土に すゝめ いれしむへきなり 往生礼讃に いはく 自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩と いへり こゝろは みつからも この法を信し ひ とをしても 信せしむる こと かたきかなかに うたゝ さらに かたし 弥陀の大悲を つたへて あ まねく 衆生を化する これまことに 仏恩を報する つとめなりと いふなり 問ていはく 諸流の異義 まち〜なる なかに 往生の一道に をいて あるひは 平生業成の義を談し  あるひは 臨終往生の のそみをかけ あるひは 来迎の義を執し あるひは 不来迎の むねを成す い まわか流に 談するところ これらの 義のなかには いつれの義そや こたへて いはく 親鸞聖人の 一流に をいては 平生業成の 義にして 臨終往生の のそみを 本と せす 不来迎の談にして 来迎の義を 執せす たゝし 平生業成と いふは 平生に 仏法にあふ機に  とりての ことなり もし臨終に 法にあはゝ その機は 臨終に 往生すへし 平生をいはす 臨終をい P--1007 はす たゝ信心を うるとき 往生 すなはち さたまるとなり これを 即得往生といふ これによりて  わか聖人の あつめたまへる 教行証の 文類の第二 正信偈の文に いはく 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味と いへり この文の こゝろは よ く 一念歓喜の 信心を おこせは 煩悩を 断せさる 具縛の 凡夫なから すなはち 涅槃の分をう  凡夫も 聖人も 五逆も 謗法も ひとしく むまる たとへは もろ〜の みつの うみに いりぬれ は ひとつうしほの あちはひと なるかことく 善悪 さらに へたてなしと いふこゝろなり たゝ  一念の信心 さたまるとき 竪に 貪瞋痴慢の 煩悩を 断せすと いへとも 横に 三界六道 輪廻の果 報を とつる義あり しかりといへとも いまた 凡身を すてす なを 果縛の穢体 なるほとは 摂取 の光明の わか身を てらしたまふをも しらす 化仏菩薩の まなこのまへに ましますをも みたてま つらす しかるに 一期のいのち すてにつきて いきたへ まなことつるとき かねて 証得しつる 往 生のことはり こゝに あらはれて 仏菩薩の 相好をも拝し 浄土の 荘厳をも みるなり これさらに  臨終のとき はしめてうる 往生には あらす されは 至心信楽の 信心を えなから なを往生を ほ かにをきて 臨終のとき はしめて えんとは おもふへからす したかひて 信心開発のとき 摂取の光 益の なかにありて 往生を 証得しつる うへには いのちをはるとき たゝその さとりの あらはる ゝ はかりなり ことあたらしく はしめて 聖衆の来迎に あつからんことを 期すへからすとなり さ P--1008 れは おなしき つきしもの 解釈にいはく 摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇と  いへり この文の こゝろは 阿弥陀如来の 摂取の心光は つねに 行者を てらし まもりて すてに よく 無明の やみを 破すといへとも 貪欲瞋恚等の悪業 くもきりの ことくして 真実信心の天を  おほへり たとへは 日のひかりの くもきりに おほはれたれとも そのしたは あきらかにして くら きことなきか ことしとなり されは 信心を うるとき 摂取の益に あつかる 摂取の益に あつかる かゆへに 正定聚に 住す しかれは 三毒の煩悩は しは〜 おこれとも まことの信心は かれにも さへられす 顛倒の妄念は つねに たへされとも さらに 未来の悪報をは まねかす かるかゆへに  もしは平生 もしは臨終 たゝ信心の おこるとき 往生は さたまるそとなり これを 正定聚に 住す ともいひ 不退のくらゐに いるとも なつくるなり このゆへに 聖人 またのたまはく 来迎は 諸行 往生にあり 自力の行者 なるかゆへに 臨終まつことゝ 来迎たのむことは 諸行往生の ひとにいふへ し 真実信心の 行人は 摂取不捨のゆへに 正定聚に住す 正定聚に 住するかゆへに かならす 滅度 にいたる 滅度に いたるかゆへに 大涅槃を 証するなり かるかゆへに 臨終まつことなし 来迎たの むことなしと いへり これらの釈に まかせは 真実信心のひと 一向専念の ともから 臨終を まつ へからす 来迎を 期すへからすと いふこと そのむね あきらかなる ものなり P--1009 問ていはく 聖人の料簡は まことに たくみなり あふいて信す たゝし 経文に かへりて 理をうか ゝふとき いつれの文に よりてか 来迎を期せす 臨終を まつましき義を こゝろうへきや たしかな る 文義をきゝて いよ〜 堅固の信心を とらんとおもふ こたへて いはく 凡夫 智あさし いまた 経釈の おもむきを わきまへす 聖教万差なれは 方便の 説あり 真実の説あり 機に対すれは いつれも その益あり 一偏に 義をとりかたし たゝ 祖師の  をしへを きゝて わか信心を たくはふる はかりなり しかるに 世のなかに ひろまれる諸流 みな 臨終をいのり 来迎を期す これを 期せさるは ひとり わかいへなり しかるあひた これをきくもの は ほと〜 みゝを おとろかし これを そねむものは はなはた あさけりをなす しかれは たや すく この義を 談すへからす 他人謗法のつみを まねかさらんか ためなり それ親鸞聖人は 深智博 覧にして 内典外典に わたり 恵解高遠にして 聖道浄土を かねたり ことに 浄土門に いりたまひ し のちは もはら 一宗の ふかき みなもとを きはめ あくまて 明師の ねんころなる をしへを  うけたまへり あるひは そのゆるされを かうふりて 製作を あひつたへ あるひは かのあはれみに  あつかりて 真影を うつし たまはらしむ としをわたり 日をわたりて そのをしへを うくるひと  千万なりと いへとも したしきといひ うときといひ 製作を たまはり 真影を うつすひとは その かす おほからす したかひて この門流の ひろまれること 自宗他宗に ならひなく その利益の さ P--1010 かりなること 田舎辺鄙に をよへり 化導の とをく あまねきは 智恵のひろきか いたすところなり  しかれは 相承の義 さためて 仏意に そむくへからす なかれを くむやから たゝあふいて 信をと るへし 無智の末学 なましゐに 経釈について 義を論せは そのあやまりを のかれかたきか よく 〜 つゝしむへし たゝし 一分なりとも 信受する ところの義 一味同行の なかにをいて これを  はゝかる へきにあらす いまこゝろみに 料簡するに まつ 浄土の 一門を たつることは 三部妙典 の説に いてたり そのなかに 弥陀如来 因位の 本願を ときて 凡夫の往生を 決すること 大経の 説 これなり その説といふは 四十八願なり 四十八願のなかに 念仏往生の 一益を とくことは 第 十八の願にあり しかるに 第十八の願のなかに 臨終平生の 沙汰なし 聖衆来現の儀を あかさす か るかゆへに 十八の願に 帰して 念仏を修し 往生をねかふとき 臨終をまたす 来迎を 期すへからす となり すなはち 第十八の願に いはく 設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生 者 不取正覚と いへり この願の こゝろは たとひ われ仏を えたらんに 十方の衆生 心を いた し 信楽して わかくにゝ むまれんと おもふて 乃至十念せん もし むまれすは 正覚を とらしと なり この願文の なかに またく 臨終と とかす 平生と いはす たゝ 至心信楽の 機にをいて  十念の 往生を あかせり しかれは 臨終に 信楽せは 臨終に 往生治定すへし 平生に 至心せは  平生に 往生決得すへし さらに 平生と 臨終とに よるへからす たゝ 仏法にあふ 時節の 分斉に  P--1011 あるへし しかるに われらは すてに 平生に 聞名欲往生の 義あり こゝにしりぬ 臨終の機にあら す 平生の機なりと いふことを かるかゆへに ふたゝひ 臨終に こゝろを かくへからすとなり し かのみならす おなしき 第十八の 願成就の文に いはく 諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念  至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転と いへり この文の こゝろは あらゆる衆生 その名号を  きゝて 信心歓喜し 乃至一念せん 至心に 廻向したまへり かのくにゝ むまれんと 願すれは すな はち 往生をえ 不退転に 住すとなり こゝろは 一切の衆生 無礙光如来の みなをきゝえて 生死出 離の 強縁 ひとへに 念仏往生の 一道に あるへしと よろこひおもふ こゝろの 一念 おこるとき  往生は さたまるなり これすなはち 弥陀如来 因位の むかし 至心に 廻向し たまへりし ゆへな りとなり この一念に つゐて 隠顕の義あり 顕には 十念に 対するとき 一念といふは 称名の 一 念なり 隠には 真因を 決了する 安心の 一念なり これすなはち 相好光明等の 功徳を 観想する  念にあらす たゝ かの如来の 名号を きゝえて 機教の 分限を おもひ さたむる くらゐを さす なり されは 親鸞聖人は この一念を 釈すとして 一念といふは 信心を 獲得する 時節の極促を  あらはすと 判したまへり しかれは すなはち いま いふところの 往生といふは あなかちに 命終 のときにあらす 無始已来 輪転六道の妄業 一念 南無阿弥陀仏と 帰命する 仏智無生の 名願力に  ほろほされて 涅槃畢竟の真因 はしめて きさすところを さすなり すなはち これを 即得往生 住 P--1012 不退転と ときあらはさるゝなり 即得といふは すなはち うとなり すなはちうと いふは ときを  へたてす 日を へたてす 念を へたてさる義なり されは 一念帰命の解了 たつとき 往生 やかて  さたまるとなり うるといふは さたまる こゝろなり この一念帰命の 信心は 凡夫自力の 迷心にあ らす 如来清浄本願の 智心なり しかれは 二河の譬喩の なかにも 中間の白道をもて 一処には 如 来の願力にたとへ 一処には 行者の信心に たとへたり 如来の願力に たとふといふは 念々無遺 乗 彼願力之道と いへる これなり こゝろは 貪瞋の煩悩に かゝはらす 弥陀如来の 願力の白道に 乗 せよとなり 行者の信心に たとふといふは 衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心といへる これなり こ ゝろは 貪瞋煩悩の なかに よく清浄願往生の心を 生すとなり されは 水火の二河は 衆生の貪瞋な り これ 不清浄の心なり 中間の白道は あるときは 行者の信心と いはれ あるときは 如来の 願 力の道と 釈せらる これすなはち 行者の おこす ところの 信心と 如来の願心と ひとつなること を あらはすなり したかひて 清浄の心と いへるも 如来の智心なりと あらはす こゝろなり もし  凡夫我執の 心ならは 清浄の心とは 釈すへからす このゆへに 経には 令諸衆生 功徳成就と いへ り こゝろは 弥陀如来 因位のむかし もろ〜の 衆生をして 功徳成就せしめ たまふとなり それ 阿弥陀如来は 三世の諸仏に 念せられたまふ 覚体なれは 久遠実成の 古仏なれとも 十劫已来の 成 道をとなへ たまひしは 果後の 方便なり これすなはち 衆生往生すへくは われも 正覚をとらんと  P--1013 ちかひて 衆生の往生を 決定せんか ためなり しかるに 衆生の往生 さたまりしかは 仏の正覚も  なりたまひき その正覚 いまた なりたまはさりし いにしへ 法蔵比丘として 難行苦行 積功累徳  したまひしとき 未来の衆生の 浄土に 往生すへき たねをは こと〜く 成就したまひき その こ とはりを きゝて 一念解了の心 おこれは 仏心と 凡心と またく ひとつに なるなり このくらゐ に 無礙光如来の光明 かの 帰命の信心を 摂取して すてたまはさるなり これを 観無量寿経には  光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨ととき 阿弥陀経には 皆得不退転 於阿耨多羅 三藐三菩提と  とけるなり 摂取不捨といふは 弥陀如来の 光明のなかに 念仏の衆生を おさめとりて すてたまはす となり これすなはち かならす 浄土に 生すへき ことはりなり 不退転を うといふは なかく 三 界六道に かへらすして かならす 無上菩提を うへきくらゐに さたまるなり 浄土真要鈔 本 P--1014 #2末 浄土真要鈔 末 問ていはく 念仏の行者 一念の信心 さたまるとき あるひは 正定聚に 住すといひ あるひは 不退 転を うといふこと はなはた おもひかたし そのゆへは 正定聚といふは かならす 無上の仏果に  いたるへき くらゐに さたまるなり 不退転といふは なかく 生死に かへらさる義を あらはす こ とはなり そのことは ことなりと いへとも そのこゝろ おなしかるへし これみな 浄土に むまれ て うるくらゐなり しかれは 即得往生 住不退転と いへるも 浄土にして うへき益なりと みえた り いかてか 穢土にして たやすく このくらゐに 住すと いふへきや こたへていはく 土につき 機につきて 退不退を 論せんときは まことに 穢土の凡夫 不退に かな ふといふこと あるへからす 浄土は不退なり 穢土は有退なり 菩薩のくらゐにをいて 不退を論す 凡 夫は みな退位なり しかるに 薄地底下の 凡夫なれとも 弥陀の名号を たもちて 金剛の信心を お こせは よこさまに 三界流転の報を はなるゝゆへに その義 不退をうるに あたれるなり これすな はち 菩薩のくらゐに をいて 論するところの 位行念の 三不退等にはあらす いまいふところの 不 P--1015 退といふは これ心不退なり されは 善導和尚の法事讃には 蒙光触者心不退と 釈せり こゝろは 弥 陀如来の 摂取の光益に あつかりぬれは 心不退を うとなり まさしく かの阿弥陀経の文には 欲生 阿弥陀仏国者 是諸人等 皆得不退転 於阿耨多羅 三藐三菩提と いへり 願をおこして 阿弥陀仏のく にゝ むまれんと おもへは このもろ〜のひとら みな不退転を うといへる 現生にをいて 願生の 信心を おこせは すなはち 不退にかなふと いふこと その文 はなはた あきらかなり また おな しき経の つきかみの文に 念仏の行者の うるところの益を とくとして 是諸善男子 善女人 皆為一 切諸仏 共所護念 皆得不退転 於阿耨多羅 三藐三菩提と いへり こゝろは このもろ〜の 善男子 善女人 みな 一切諸仏のために ともに 護念せられて みな不退転を 阿耨多羅 三藐三菩提を うと なり しかれは 阿弥陀仏のくにゝ むまれんと おもふ まことなる信心の おこるとき 弥陀如来は  遍照の光明をもて これを おさめとり 諸仏は こゝろを ひとつにして この信心を 護念したまふか ゆへに 一切の悪業煩悩に さへられす この心 すなはち 不退にして かならす 往生をうるなり こ れを 即得往生 住不退転と とくなり すなはち 往生を うといへるは やかて 往生をうと いふな り たゝし 即得往生 住不退転と いへる 浄土に往生して 不退を うへき義を 遮せんとにはあらす  まさしく 往生ののち 三不退をもえ 処不退にも かなはんことは しかなり 処々の経釈 そのこゝろ  なきにあらす 与奪のこゝろ あるへきなり しかりといへとも いま即得往生 住不退転といへる 本意 P--1016 には 証得往生 現生不退の密益を ときあらはすなり これをもて わか流の極致と するなり かるか ゆへに 聖人 教行証の文類のなかに 処々に この義を のへたまへり かの文類の第二に いはく 憶 念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩といへり こゝろは 弥陀仏の本願を  憶念すれは 自然に すなはちのとき 必定にいる たゝよく つねに 如来のみなを称して 大悲弘誓の 恩を 報すへしとなり すなはちのときと いふは 信心を うるときを さすなり 必定にいるといふは  正定聚に住し 不退にかなふと いふこゝろなり この凡夫のみなから かゝるめてたき 益をうることは  しかしなから 弥陀如来の 大悲願力の ゆへなれは つねに その名号を となへて かの恩徳を 報す へしと すゝめたまへり またいはく 十方群生海 この行信に 帰命するものを 摂取してすてす かる かゆへに 阿弥陀仏と なつけたてまつる これを 他力といふ こゝをもて 龍樹大士は 即時入必定と いひ 曇鸞大師は 入正定之聚と いへり あふいて これを たのむへし もはら これを 行すへしと  いへり 龍樹大士は 即時入必定と いふといふは 十住毘婆沙論に 人能念是仏 無量力功徳 即時入必 定 是故我常念と いへる文これなり この文の こゝろは ひとよく この仏の 無量力功徳を 念すれ は すなはちのとき 必定にいる このゆへに われつねに 念すとなり この仏と いへるは 阿弥陀仏 なり われと いへるは 龍樹菩薩なり さきに いたすところの 憶念弥陀仏本願力の釈も これ龍樹の  論判によりて のへたまへるなり 曇鸞大師は 入正定之聚と いへりといふは 註論の上巻に 但以信仏 P--1017 因縁 願生浄土 乗仏願力 便得往生 彼清浄土 仏力住持 即入大乗正定之聚と いへる文 これなり  文のこゝろは たゝ仏を信する 因縁をもて 浄土に むまれんと ねかへは 仏の願力に 乗して すな はち かの清浄の土に 往生することをう 仏力住持して すなはち 大乗正定の聚に いるとなり これ も 文の顕説は 浄土に むまれてのち 正定聚に 住する義を とくに にたりと いへとも そこには  願生の信を 生するとき 不退にかなふことを あらはすなり なにをもてか しるとならは この註論の 釈は かの十住毘婆沙論の こゝろをもて 釈するかゆへに 本論のこゝろ 現身の益なりと みゆるうへ は いまの釈も かれに たかふへからす 聖人ふかく このこゝろを えたまひて 信心を うるとき  正定の くらゐに 住する義を ひき釈したまへり すなはちといへるは ときをうつさす 念をへたてさ る義なり また おなしき第三に 領解の心中を のへたまふとして 愛欲の広海に 沈没し 名利の太山 に 迷惑して 定聚のかすに いることを よろこはす 真証の証に ちかつくことを たのしますと い へり これすなはち 定聚のかすに いることをは 現生の益なりとえて これをよろこはすと わかこゝ ろを はちしめ 真証のさとりをは 生後の果なりとえて これにちかつくことを たのしますと かなし み たまふなり 定聚といへるは すなはち 不退のくらゐ また必定の義なり 真証のさとりと いへる は これ滅度なり また 常楽ともいふ 法性とも いふなり また おなしき第四に 第十一の願に よ りて 真実の証を あらはすに 煩悩成就の凡夫 生死罪濁の群萌 往相廻向の 心行をうれは すなはち P--1018 のときに 大乗正定聚の かすにいる 正定聚に 住するかゆへに かならす 滅度にいたる かならす  滅度にいたるは すなはちこれ 常楽なり 常楽は すなはちこれ 畢竟寂滅なり 寂滅は すなはちこれ  無上涅槃なり 無上涅槃は すなはちこれ 無為法身なり 無為法身は すなはちこれ 実相なり 実相は  すなはちこれ 真如なり 真如は すなはちこれ 一如なりといへる すなはち このこゝろなり 聖人の 解了 常途の所談に おなしからす 甚深の教義 よくこれを おもふへし 問ていはく 観経の 下輩の機をいふに みな臨終の 一念十念によりて 往生をうと みえたり またく  平生往生の義をとかす いかん こたへていはく 観経の下輩は みなこれ 一生造悪の 機なるかゆへに むまれてより このかた 仏法 の名字をきかす たゝ悪業を つくることをのみ しれり しかるに 臨終のとき はしめて 善知識にあ ひて 一念十念の 往生をとくといへり これすなはち つみふかく 悪をもき機 行業いたりて すくな けれとも 願力の不思議によりて 刹那に 往生をとく これあなかちに 臨終を 賞せんとには あらす  法の不思議を あらはすなり もしそれ 平生に 仏法にあはゝ 平生の念仏 そのちから むなしからす して 往生を とくへきなり 問ていはく 十八の願に ついて 因位の願には 十念と願し 願成就の文には 一念ととけり 二文の相 違 いかん こゝろうへきや P--1019 こたへていはく 因願のなかに 十念と いへるは まつ 三福等の 諸善に 対して 十念の往生を と けり これ易行を あらはす ことはなり しかるに 成就の文に 一念と いへるは 易行のなかに な を易行を えらひとる こゝろなり そのゆへは 観経義の第二に 十三定善のほかに 三福の諸善を と くことを 釈すとして 若依定行 即摂生不尽 是以如来方便 顕開三福 以応散動根機と いへり 文の こゝろは もし 定行によれは すなはち 生を摂するに つきす こゝをもて 如来方便して 三福を  顕開して 散動の根機に 応すとなり いふこゝろは 観経のなかに 定善はかりを とかは 定機はかり を 摂すへきゆへに 散機の往生を すゝめんかために 散善を とくとなり これになすらへて こゝろ うるに 散機のなかに 二種のしなあり ひとつには 善人 ふたつには 悪人なり その善人は 三福を 行すへし 悪人は これを 行すへからさるかゆへに それかために 十念の往生を とくと こゝろえら れたり しかるに この悪人のなかに また 長命短命の 二類あるへし 長命のためには 十念をあたふ  至極短命の 機のためには 一念の利生を 成就すとなり これ 他力のなかの他力 易行のなかの易行を  あらはすなり 一念の信心 さたまるとき 往生を 証得せんこと これその証なり 問ていはく 因願には 十念ととき 成就の文には 一念と とくといへとも 処々の解釈 おほく 十念 をもて 本とす いはゆる 法事讃には 上尽一形 至十念といひ 礼讃には 称我名号 下至十声と い へる釈等 これなり したかひて よのつねの 念仏の行者をみるに みな 十念をもて 行要とせり し P--1020 かるに 一念をもて なを 易行のなかの 易行なりと いふこと おほつかなし いかん こたへていはく 処々の解釈 十念と 釈すること あるいは 因願のなかに 十念とゝきたれは その文 によると こゝろえぬれは 相違なし よのつねの 行者の もちゐるところ また この義なるへし 一 念と いへるも また 経釈の 明文なり いはゆる 経には 大経の 成就の文 おなしき 下輩の文  おなしき 流通の文等 これなり 成就の文は さきに いたすかことし 下輩の文と いふは 乃至一念 々於彼仏と いへる文 これなり 流通の文と いふは 其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念 当 知此人 為得大利 即是具足 無上功徳と いへる文 これなり この文のこゝろは それかの仏の 名号 を きくことをえて 歓喜踊躍して 乃至一念することあらん まさにしるへし このひとは 大利をうと す すなはちこれ 無上の功徳を 具足するなりとなり 釈には 礼讃のなかに あるひは 弥陀本弘誓願  及称名号 下至十声一声等 定得往生 乃至一念 無有疑心といひ あるひは 歓喜至一念 皆当得生彼と  いへる釈等 これなり おほよそ 乃至のことはを をけるゆへに 十念といへるも 十念に かきるへか らす 一念と いへるも 一念に とゝまるへからす 一念の つもれるは 十念 十念の つもれるは  一形 一形を つゝむれは 十念 十念を つゝむれは 一念なれは たゝこれ 修行の 長短なり かな らすしも 十念に かきるへからす しかれは 選択集に 諸師と 善導和尚と 第十八の願にをいて 名 をたてたることの かはりたる様を 釈するとき このこゝろ あきらかなり そのことはにいはく 諸師 P--1021 の別して 十念往生の願と いへるは そのこゝろ すなはち あまねからす しかるゆへは かみ一形を すて しも一念を すつるかゆへなり 善導の 総して 念仏往生の願と いへる そのこゝろ すなはち  あまねし しかるゆへは かみ一形をとり しも一念を とるかゆへなりとなり しかのみならす 教行証 文類の第二に 安楽集を ひきていはく 十念相続といふは これ聖者の ひとつのかす まくのみ すな はち よく念をつみ おもひを こらして 他事を 縁せされは 業道成弁せしめて すなはちやみぬ ま たいたはしく これを頭数を しるさしといへり 十念といへるは 臨終に 仏法にあへる 機について  いへることはなり されは 経文の あらはなるに ついて ひとおほく これをもちゐる これすなはち  臨終を さきとする ゆへとみえたり 平生に 法をきゝて 畢命を 期とせんひと あなかちに 十念を  ことゝすへからす されはとて 十念を 非するには あらす たゝおほくも すくなくも ちからの た へんにしたかひて 行すへし かならすしも かすをさたむへきに あらすとなり いはんや 聖人の釈義 の ことくは 一念といへるに ついて 行の一念と 信の一念とを わけられたり いはゆる 行の一念 をは 真実行のなかに あらはして 行の一念といふは いはく 称名の遍数について 選択易行の 至極 を 顕開すといひ 信の一念をは 真実信のなかに あらはして 信楽に 一念あり 一念といふは これ  信楽開発の 時剋の極促を あらはし 広大難思の 慶心を あらはすといへり かみに いふところの  十念一念は みな 行について 論する ところなり 信心について いはんときは たゝ一念開発の信心 P--1022 を はしめとして 一念の疑心を ましへす 念々相続して かの願力の道に 乗するかゆへに 名号をも て またく わか行体と さたむへからされは 十念とも 一念とも いふへからす たゝ他力の 不思議 を あふき 法爾往生の 道理に まかすへきなり 問ていはく 来迎は 念仏の益なるへきこと 経釈ともに 歴然なり したかひて 諸流みな この義を  存せり しかるに 来迎をもて 諸行の益と せんこと すこふる 浄土宗の 本意に あらさるをや こたへていはく あにさきに いはすや この義は これわか一流の 所談なりとは 他流の義をもて 当 流の義を 難すへからす それ経釈の文に をいては 自他ともに 依用す たゝ料簡の まち〜なるな り まつ来迎を とくことは 第十九の願にあり かの願文を あきらめて こゝろうへし その願にいは く 設我得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不与 大衆囲遶 現 其人前者 不取正覚といへり この願の こゝろは たとひわれ 仏をえたらんに 十方の衆生 菩提心を  おこし もろ〜の 功徳を 修して 心をいたし 願を おこして わかくにゝ むまれんと おもはん  いのち をはるときに のそみて たとひ 大衆と 囲遶して そのひとの まへに 現せすは 正覚を  とらしとなり 修諸功徳と いふは 諸行なり 現其人前と いふは 来迎なり 諸行の修因に こたへて  来迎に あつかるへしと いふこと その義 あきらかなり されは得生は 十八の願の益 来迎は 十九 の願の益なり この両願の こゝろをえなは 経文にも 解釈にも 来迎を あかせるは みな十九の願の  P--1023 益なりと こゝろうへきなり たゝし 念仏の益に 来迎あるへきやうに みえたる文証 ひとすちに こ れなきには あらす しかれとも 聖教にをいて 方便の説あり 真実の説あり 一往の義あり 再往の義 あり 念仏にをいて 来迎あるへしと みえたるは みな浅機を 引せんかための 一往方便の説なり 深 理を あらはすときの 再往真実の義に あらすと こゝろうへし 当流の料簡 かくのことし 善導和尚 の 解釈にいはく 道理雖遥 去時一念即到といへり こゝろは 浄土と穢土と そのさかひ はるかなる に にたりと いへとも まさしく さるときは 一念に すなはち いたると いふこゝろなり 往生の 時分 一念なれは そのあひたには さらに 来迎の儀式も あるへからす まとひを ひるかへして さ とりを ひらかんこと たゝたなこゝろを かへすへたて なるへし かくのこときの義 もろ〜の 有 智のひと そのこゝろを えつへし 問ていはく 経文について 十八十九の 両願をもて 得生と来迎とに わかちあつる義 一流の所談 ほ ゝきこえ をはりぬ たゝし 解釈に ついて なを不審あり 諸師の釈は しはらく これをさしをく  まつ善導一師の 釈にをいて 処々に来迎を 釈せられたり これみな 念仏の益なりと みえたり いか ゝ こゝろうへきや こたへていはく 和尚の解釈に 来迎を 釈することは しかなり たゝし一往は 念仏の益に にたれと も これみな 方便なり 実には 諸行の益 なるへし そのゆへは さきに のふるかことく 念仏往生 P--1024 のみちを とくことは 第十八の願なり しかるに 和尚 処々に 十八の願を ひき釈せらるゝに また く 来迎の義を 釈せられす 十九の願に とくところの来迎 もし 十八の願の 念仏の益 なるへきな らは もとも 十八の願を ひくところに 来迎を 釈せらるへし しかるに その文なし あきらかに  しりぬ 来迎は 念仏の益に あらすと いふことを よく〜 これをおもふへし 問ていはく 第十八の願を ひき釈せらるゝ 処々の解釈と いふは いつれそや こたへていはく まつ観経義の 玄義分に 二処あり いはゆる 序題門 二乗門の釈 これなり まつ序 題門の釈には 言弘願者 如大経説 一切善悪 凡夫得生者 莫不皆乗 阿弥陀仏 大願業力 為増上縁と  いへり こゝろは 弘願といふは 大経に とくかことし 一切善悪の凡夫 むまるゝことを うるものは  みな 阿弥陀仏の 大願業力に 乗して 増上縁と せすといふこと なしとなり これ十八の願の こゝ ろなり つきに 二乗門の釈には 若我得仏 十方衆生 称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取 正覚といへり また往生礼讃には 若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚といひ  観念法門には 若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚とい へり これらの文 そのことは すこしき 加減ありと いへとも そのこゝろ おほきにおなし 文のこ ゝろは もしわれ 成仏せんに 十方の衆生 わかくにゝ 生せんと願して わか名字を 称すること し も十声に いたらん わか願力に 乗して もしむまれすは 正覚を とらしとなり あるひは 称我名号 P--1025 といひ あるひは 乗我願力といへる これらの ことはゝ 本経に なけれとも 義として あるへきか ゆへに 和尚 この句を くはへられたり しかれは 来迎の益も もしまことに 念仏の益にして この 願の なかに あるへきならは もとも これらの 引文のなかに これを のせらるへし しかるに そ の文なきかゆへに 来迎は 念仏の益に あらすと しらるゝなり 処々の解釈に をいては 来迎を釈す と いふとも 十八の願の益と 釈せられすは その義 相違あるへからす 問ていはく 念仏の行者は 十八の願に 帰して 往生をえ 諸行の行人は 十九の願を たのみて 来迎 に あつかるといひて 各別に こゝろうること しかるへからす そのゆへは 念仏の行者の 往生を  うといふは 往生より さきには 来迎に あつかるへし 諸行の行人の 来迎に あつかるといふは 来 迎の のちには 往生をうへし なんそ 各別に こゝろうへきや こたへていはく 親鸞聖人の 御意を うかゝふに 念仏の行者の 往生を うるといふは 化仏の来迎に  あつからす もし あつかるといふは 報仏の来迎なり これ 摂取不捨の 益なり 諸行の行人の 来迎 に あつかるといふは 真実の往生を とけす もし とくるといふも これ 胎生辺地の 往生なり 念 仏と 諸行と ひとつに あらされは 往生と 来迎と また おなしかるへからす しかれは 他力真実 の行人は 第十八の願の 信心をえて 第十一の 必至滅度の願の 果をうるなり これを 念仏往生とい ふ これ真実報土の 往生なり この往生は 一念帰命のとき さたまりて かならす 滅度に いたるへ P--1026 き くらゐを うるなり このゆへに 聖人の 浄土文類聚鈔に いはく 必至無上浄信暁 三有生死之雲晴 清浄無礙光耀朗 一如法界真身顕と いへり 文の こゝろは かなら す 無上浄信の あかつきに いたれは 三有生死の くもはる 清浄無礙の光耀 ほからかにして 一如 法界の真身 あらはるとなり 三有生死の くもはると いふは 三界流転の業用 よこさまに たえぬと なり 一如法界の真身 あらはるといふは 寂滅無為の 一理を ひそかに 証すとなり しかれとも 煩 悩に おほはれ 業縛に さへられて いまた その理を あらはさす しかるに この一生を すつると き このことはり あらはるゝ ところをさして 和尚は この穢身をすてゝ かの法性の常楽を 証すと  釈したまへるなり されは 往生といへるも 生即無生のゆへに 実には 不生不滅の義なり これすなは ち 弥陀如来 清浄本願の 無生の生なるかゆへに 法性清浄 畢竟無生なり されはとて この無生の道 理を こゝにして あなかちに さとらんと はけめとには あらす 無智の凡夫は 法性無生の ことは りを しらすと いへとも たゝ仏の名号を たもち 往生を ねかひて 浄土に むまれぬれは かの土 は これ無生のさかひ なるかゆへに 見生のまとひ 自然に 滅して 無生のさとりに かなふなり こ の義 くはしくは 曇巒和尚の 註論に みえたり しかれは ひとたひ 安養に いたりぬれは なかく  生滅去来等の まとひをはなる そのまとひを ひるかへして さとりを ひらかん 一念のきさみには  実には 来迎も あるへからすとなり 来迎あるへしと いへるは 方便の説なり このゆへに 高祖善導 P--1027 和尚の 解釈にも 弥陀如来は 娑婆にきたり たまふと みえたる ところもあり また 浄土をうこき  たまはすと みえたる 釈もあり しかれとも 当流のこゝろにては きたると いへるは みな方便なり と こゝろうへし 法事讃にいはく 一坐無移亦不動 徹窮後際放身光 霊儀相好真金色 魏々独坐度衆生 と いへり こゝろは ひとたひ坐して うつることなく またうこきたまはす 後際を 徹窮して 身光 をはなつ 霊儀の相好 真金色なり 魏々として ひとり坐して 衆生を 度したまふとなり この文の  ことくならは ひとたひ 正覚をなり たまひしより このかた まことの報身は うこきたまふことなし  たゝ浄土に 坐して ひかりを 十方にはなちて 摂取の益を をこし たまふと みえたり おほよそ  しりそいて 他宗のこゝろを うかゝふにも まことに きたると 執するならは 大乗甚深の義には か なひかたきをや されは 真言の祖師 善無畏三蔵の 解釈にも 弥陀の真身の相を 釈すとして 理智不 二 名弥陀身 不従他方 来迎引接といへり こゝろは 法身の理性と 報身の智品と このふたつ きは まりて ひとつなる ところを 弥陀仏となつく 他方より 来迎引接 せすとなり 真実報身の体は 来 迎の義なしと みえたり 自力不真実の行人は 第十九の願に ちかひまします ところの 修諸功徳 乃 至現其人前の文を たのみて のそみを 極楽にかく しかれとも もとより 諸善は 本願にあらす 浄 土の生因に あらさるかゆへに 報土の往生を とけす もしとくるも これ胎生辺地の 往生なり この 機の ためには 臨終を期し 来迎を たのむへしと みえたり これみな 方便なり されは 願文の仮 P--1028 令の句は 現其人前も 一定の益に あらさることを ときあらはす ことはなり この機は 聖衆の来迎 に あつからす 臨終正念 ならすしては 辺地胎生の 往生も なを 不定なるへし しかれは 本願に あらさる 不定の 辺地の往生を 執せんよりは 仏の本願に 順して 臨終を 期せす 来迎を たのま すとも 一念の信心 さたまれは 平生に 決定往生の業を 成就する 念仏往生の願に 帰して 如来の 他力をたのみ かならす 真実報土の 往生を とくへきなり 問ていはく 諸行の往生をもて 辺地の往生と いふこと いつれの 文証によりて こゝろうへきそや こたへていはく 大経のなかに 胎生化生の 二種の往生を とくとき あきらかに 仏智を 信するもの は 化生し 仏智を 疑惑して 善本を 修習するものは 胎生する 義をとけり しかれは あきらかに  仏智を 信するものといふは 第十八の願の機 これ至心信楽の 行者なり その化生といふは すなはち  報土の往生なり つきに 仏智を 疑惑して 善本を 修習するものと いふは 第十九の願の機 修諸功 徳の 行人なり その胎生と いへるは すなはち 辺地なり この文に よりて こゝろうるに 諸行の 往生は 胎生なるへしと みえたり されは 十八の願に 帰して 念仏を行し 仏智を 信するものは  得生の益にあつかりて 報土に化生し 十九の願を たのみて 諸行を 修するひとは 来迎の益を えて  化土に 胎生すへし 化土といふは すなはち 辺地なり 問ていはく いかなるをか 胎生といひ いかなるをか 化生と なつくるや P--1029 こたへていはく おなしき経に まつ 胎生の相を とくとしては 生彼宮殿 寿五百歳 常不見仏 不聞 経法 不見菩薩 声聞聖衆 是故於彼国土 謂之胎生といへり こゝろは かの極楽の宮殿に むまれて  いのち 五百歳のあひた つねに 仏を みたてまつらす 経法をきかす 菩薩声聞聖衆をみす このゆへ に かの国土にをいて これを胎生と いふなり これ疑惑のものゝ 生するところなり つきに 化生の 相を とくとしては 於七宝花中 自然化生 跏趺而坐 須臾之頃 身相光明 智恵功徳 如諸菩薩 具足 成就と いへり こゝろは 七宝のはなの なかにをいて 自然に 化生し 跏趺して しかも坐す 須臾 の あひたには 身相光明 智恵功徳 もろ〜の 菩薩の ことくして 具足し 成就すとなり これ仏 智を 信するものゝ 生する ところなり 問ていはく なにゝよりてか いまいふところの 胎生をもて すなはち 辺地と こゝろうへきや こたへていはく 胎生といひ 辺地といへる そのことは ことなれとも 別にあらす 略論のなかに い まひくところの 大経の文を いたして これを結するに 謂之辺地 亦曰胎生といへり かくのことく  宮殿のなかに 処するをもて これを 辺地ともいひ または 胎生とも なつくとなり また おなしき  釈のなかに 辺言其難 胎言其闇といへり こゝろは 辺は その難をいひ 胎は その闇を いふとなり  これすなはち 報土のうちに あらすして そのかたはらなる 義をもては 辺地といふ これその難を  あらはす ことはなり また 仏を みたてまつらす 法を きかさる義に ついては 胎生といふ これ P--1030 その くらきことを いへる名なりと いふなり されは 辺地に むまるゝものは 五百歳のあひた 仏 をも みたてまつらす 法をもきかす 諸仏にも 歴事せす 報土に むまるゝものは 一念須臾の あひ たに もろ〜の 功徳をそなへて 如来の相好を みたてまつり 甚深の法門をきゝ 一切の諸仏に 歴 事供養して こゝろのことく 自在をうるなり 諸行と念仏と その因 おなしからされは 胎生と化生と  勝劣はるかに ことなるへし しかれは すなはち その行因をいへは 諸行は 難行なり 念仏は 易行 なり はやく 難行をすてゝ 易行に帰すへし その益を 論すれは 来迎は 方便なり 得生は 真実な り もとも 方便に とゝまらすして 真実を もとむへし いかにいはんや 来迎は 不定の益なり 仮 令不与 大衆囲遶と とくかゆへに 得生は 決定の益なり 若不生者 不取正覚と いふかゆへに その 果処をいへは 胎生は 化土の往生なり 化生は 報土の往生なり もはら 化土の往生を 期せすして  直に報土の 無生を うへきものなり されは 真実報土の 往生を とけんと おもはゝ ひとへに 弥 陀如来の 不思議の仏智を 信して もろ〜の 雑行を さしをきて 専修専念 一向一心 なるへし  第十八の願には 諸行をましへす ひとへに 念仏往生の 一道を とけるゆへなり 問ていはく 一流の義 きこえをはりぬ それにつきて 信心をおこし 往生をえんことは 善知識の を しへに よるへしと いふこと かみにきこえき しからは 善知識と いへる体をは いかゝ こゝろう へきや P--1031 こたへていはく 総して いふときは 真の善知識といふは 諸仏菩薩なり 別して いふときは われに  法を あたへたまへる ひとなり いはゆる 涅槃経にいはく 諸仏菩薩名知識 善男子譬如船師 善度人 故 名船師 諸仏菩薩 亦復如是 度諸衆生 生死大海 以是義故 名善知識と いへり この文の こゝ ろは もろ〜の 仏菩薩を 善知識となつく 善男子 たとへは 船師の よくひとを わたすかことし かるかゆへに 大船師となつく もろ〜の 仏菩薩も また〜 かくのことし もろ〜の 衆生をし て 生死の 大海を度す この義を もてのゆへに 善知識と なつくとなり されは 真実の 善知識は  仏菩薩なるへしと みえたり しからは 仏菩薩の ほかには 善知識は あるましきかと おほゆるに  それには かきるへからす すなはち 大経の下巻に 仏法の あひかたきことを とくとして 如来興世  難値難見 諸仏経道 難得難聞 菩薩勝法 諸波羅密 得聞亦難 遇善知識 聞法能行 此亦為難といへり  文の こゝろは 如来の興世 あひかたく みたてまつりかたし 諸仏の経道 えかたく きゝかたし 菩 薩の勝法 諸波羅密 きくことを うること またかたし 善知識にあひて 法をきゝ よく行すること  これまた かたしとすとなり されは 如来にも あひたてまつり かたしといひ 菩薩の勝法も きゝか たしといひて そのほかに 善知識にあひ 法をきくことも かたしといへるは 仏菩薩の ほかにも 衆 生のために 法をきかしめん ひとをは 善知識と いふへしと きこへたり またまさしく みつから  法をときて きかするひと ならねとも 法をきかする 縁となる ひとをも 善知識となつく いはゆる  P--1032 妙荘厳王の 雲雷音王仏に あひたてまつり 邪見を ひるかへし 仏道をなり 二子夫人の 引導により しをは かの三人をさして 善知識ととけり また 法花三昧の 行人の 五縁具足のなかに 得善知識と  いへるも 行者のために 依怙となる ひとをさすと みえたり されは 善知識は 諸仏菩薩なり 諸仏 菩薩の 総体は 阿弥陀如来なり その智恵をつたへ その法をうけて 直にもあたへ また しられんひ とに みちひきて 法をきかしめんは みな善知識なるへし しかれは 仏法をきゝて 生死を はなるへ き みなもとは たゝ善知識なり このゆへに 教行証文類の 第六に 諸経の文を ひきて 善知識の徳 を あけられたり いはゆる 涅槃経には 一切梵行の因は 善知識なり 一切梵行の因 無量なりと い へとも 善知識を とけは すなはち すてに 摂在しぬといひ 華厳経には なんち 善知識を 念せよ  われを 生すること 父母のことし われを やしなふこと 乳母のことし 菩薩分を 増長すといへり  このゆへに ひとたひ そのひとに したかひて 仏法を 行せんひとは なかく そのひとを まもりて  かのをしへを 信すへきなり 浄土真要鈔 広末